今年一番わたしに響いた本。
修行論(1) では、ヨガと合気道の共通項を、それぞれの修行の目的と過程という観点からご紹介しました。
今回は・・・まとめきれず、、、
ぐっときたところを抜粋する形で①から⑳まで小見出し付けてご紹介します。
というか自分の付箋がわり。
①我執
「我執を脱する」という努力が、達成度や成果を自己評価できるものである限り、その努力は「我執を強化する」方向にしか作用しない。
②天下無敵
敵を忘れ、私を忘れ、戦うことの意味を忘れたときにこそ人は最強となる。
最強の身体運用は、「守るべき私」という観念を廃棄したときに初めて獲得される。
(中略)
「敵」をなくすには、「敵」をなくすのではなく、「これは敵だ」と思いなす「私」を消してしまえばいい。
③無知
ある哲学者によれば、無知とは知識の欠如ではない。そうではなくて、知識で頭がぎっしり目詰まりして、新しい知識を受け容れる余地がない状態のことを言うのだそうである。
(中略)
人はものを知らないから無知であるのではない。いくら物知りでも、今自分が用いている情報処理システムを変えたくないと思っている人間は、進んで無知になる。
自分の知的枠組みを要求するような情報の入力を拒否する我執を、無知と呼ぶのである。
④信仰(ヨガ行者成瀬先生およびイエスキリストの空中浮遊についての言及から)
聖典のうち、自分が真実であると判断した箇所だけを信じ、自分が嘘だと思う箇所は読み飛ばす権利が自分にあると思っているものを、「信仰を持つ人」と呼ぶことはむずかしいと私は思う。
(中略)
(信仰を持つというのは)自分がものごとを知覚し、受容し、認識しているときに用いている知的な枠組みの射程は限定的なものであり、「私の知的枠組みを超越するもの」が存在する蓋然性は高いと認めることである。
⑤科学
手持ちの計測機器や既知のスキームでは考量不可能の現象に惹きつけられ、その現象の背後にどのような隠された法則性があるのかを発見しようとする。
科学史が教える限り、「科学的」というのはこのような前のめりの態度を言うのであり、今ある計測方法で考量できないものは「存在しない」と決めつける退嬰的態度のことは、むしろ「科学主義的」と呼ぶべきだろう。
⑥潜在能力の開花
「鍛える」というのはハードディスクの容量を増やすことであり、「潜在的な能力を開花させる」というのはOSをヴァージョンアップすることである。
⑦弱さ
弱さを徹底的に反省することでしか、生きる知恵と力を高めることはできない。
⑧非瞑想的
世界の見方のかたくなさのことを、「非瞑想的」と呼んでいいだろう。
(中略)
そういう「非瞑想的な人」の住む世界はたしかに堅牢である。
⑨瞑想の目的
先人が瞑想という技法を発明したのは、もちろん、「生き延びるチャンスを増大させるため」である。(中略)人類の祖先たちが創意工夫を凝らした心身の技法はすべて、「生きる知恵と力を高める」ためのものである。
⑪武道的瞑想
(瞑想とは)「今・ここ・私」という不動の定点と思われたものから離脱して、「今」ではない時間、「ここ」ではない場所、「私」ではない主体の座に移動することである。
そこから、「今・ここ・私」が遭遇した事態を俯瞰的に観察し、何が起きているのかを理解し、なすべきことがあれば、なすべきことをなす。それが武道的な意味での瞑想である。
⑫瞑想とは
「今・ここ・私」という定点への居着きから自己解放することである
⑬武道を稽古する理由
「自我」という、平時においては有用だが、危機においては有害な「額縁」装置の着脱の訓練をしているのである。危機に臨んだときに、すぐに「自我」を脱ぎ捨てることのできる訓練をしているのである。
⑭生命力
生命活動の中心にあるのは自我ではない。生きる力である。
⑮自我の芽生え(赤ちゃんの鏡像の模倣、同化のプロセスから)
自我は、「私」が外部にある他者を、自分だと「錯認した」ことで成立する。
⑯神秘体験の真相
実際に、世に「神秘的」と呼ばれる経験の多くは、「精度の低い計測機器では感知できなかった量的な変化」である。計測機器の精度が上がれば、誰にでも観察できる。
だから、宗教の儀礼や武道の技法は、たいていの場合、「身体という計測機器の精度を上げる」という、たいへんにプラクティカルな要請に応えて組織化されているのである。
⑰修行とは
「そんなこと」が人間にできるとは思ってもいなかったことを、自分ができるようになるというのが、修行の順道なのである。だから、稽古に先立って「到達目標」として措定されたものは、修行の途中で必ず放棄されることになる。そもそも修業とは、「そんなところに出るとは思ってもいなかった所に出てしまう」ことなのである。
⑱祈り
当然ながら、人間は汚れた場所では祈ることができない。祈りとは幽かなシグナルを聴き取ろうとする構えのことである。祈るためには五感の感度を最大化しなければならない。
⑲成熟
幼児のときには見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえ、判別できなかった香りや味がわかり、かつては感知できなかった他者の感情の変化や思考の揺れがわかる。それが成熟するということの実相である。
成熟とは、徹底的に身体的な経験なのである。
⑳身体
正義が過剰に攻撃的なものにならないように、慈愛が過剰に放埓なものにならないように、バランスを取ることができるのは生身の人間だけである。
そういうデリケートなさじ加減の調整は、身体を持った個人にしかできない。法律や規則によって永続的に「正義と慈愛のバランスを取る」ことはできない。
以上。
というか自分の付箋がわり。
①我執
「我執を脱する」という努力が、達成度や成果を自己評価できるものである限り、その努力は「我執を強化する」方向にしか作用しない。
②天下無敵
敵を忘れ、私を忘れ、戦うことの意味を忘れたときにこそ人は最強となる。
最強の身体運用は、「守るべき私」という観念を廃棄したときに初めて獲得される。
(中略)
「敵」をなくすには、「敵」をなくすのではなく、「これは敵だ」と思いなす「私」を消してしまえばいい。
③無知
ある哲学者によれば、無知とは知識の欠如ではない。そうではなくて、知識で頭がぎっしり目詰まりして、新しい知識を受け容れる余地がない状態のことを言うのだそうである。
(中略)
人はものを知らないから無知であるのではない。いくら物知りでも、今自分が用いている情報処理システムを変えたくないと思っている人間は、進んで無知になる。
自分の知的枠組みを要求するような情報の入力を拒否する我執を、無知と呼ぶのである。
④信仰(ヨガ行者成瀬先生およびイエスキリストの空中浮遊についての言及から)
聖典のうち、自分が真実であると判断した箇所だけを信じ、自分が嘘だと思う箇所は読み飛ばす権利が自分にあると思っているものを、「信仰を持つ人」と呼ぶことはむずかしいと私は思う。
(中略)
(信仰を持つというのは)自分がものごとを知覚し、受容し、認識しているときに用いている知的な枠組みの射程は限定的なものであり、「私の知的枠組みを超越するもの」が存在する蓋然性は高いと認めることである。
⑤科学
手持ちの計測機器や既知のスキームでは考量不可能の現象に惹きつけられ、その現象の背後にどのような隠された法則性があるのかを発見しようとする。
科学史が教える限り、「科学的」というのはこのような前のめりの態度を言うのであり、今ある計測方法で考量できないものは「存在しない」と決めつける退嬰的態度のことは、むしろ「科学主義的」と呼ぶべきだろう。
⑥潜在能力の開花
「鍛える」というのはハードディスクの容量を増やすことであり、「潜在的な能力を開花させる」というのはOSをヴァージョンアップすることである。
⑦弱さ
弱さを徹底的に反省することでしか、生きる知恵と力を高めることはできない。
⑧非瞑想的
世界の見方のかたくなさのことを、「非瞑想的」と呼んでいいだろう。
(中略)
そういう「非瞑想的な人」の住む世界はたしかに堅牢である。
⑨瞑想の目的
先人が瞑想という技法を発明したのは、もちろん、「生き延びるチャンスを増大させるため」である。(中略)人類の祖先たちが創意工夫を凝らした心身の技法はすべて、「生きる知恵と力を高める」ためのものである。
⑪武道的瞑想
(瞑想とは)「今・ここ・私」という不動の定点と思われたものから離脱して、「今」ではない時間、「ここ」ではない場所、「私」ではない主体の座に移動することである。
そこから、「今・ここ・私」が遭遇した事態を俯瞰的に観察し、何が起きているのかを理解し、なすべきことがあれば、なすべきことをなす。それが武道的な意味での瞑想である。
⑫瞑想とは
「今・ここ・私」という定点への居着きから自己解放することである
⑬武道を稽古する理由
「自我」という、平時においては有用だが、危機においては有害な「額縁」装置の着脱の訓練をしているのである。危機に臨んだときに、すぐに「自我」を脱ぎ捨てることのできる訓練をしているのである。
⑭生命力
生命活動の中心にあるのは自我ではない。生きる力である。
⑮自我の芽生え(赤ちゃんの鏡像の模倣、同化のプロセスから)
自我は、「私」が外部にある他者を、自分だと「錯認した」ことで成立する。
⑯神秘体験の真相
実際に、世に「神秘的」と呼ばれる経験の多くは、「精度の低い計測機器では感知できなかった量的な変化」である。計測機器の精度が上がれば、誰にでも観察できる。
だから、宗教の儀礼や武道の技法は、たいていの場合、「身体という計測機器の精度を上げる」という、たいへんにプラクティカルな要請に応えて組織化されているのである。
⑰修行とは
「そんなこと」が人間にできるとは思ってもいなかったことを、自分ができるようになるというのが、修行の順道なのである。だから、稽古に先立って「到達目標」として措定されたものは、修行の途中で必ず放棄されることになる。そもそも修業とは、「そんなところに出るとは思ってもいなかった所に出てしまう」ことなのである。
⑱祈り
当然ながら、人間は汚れた場所では祈ることができない。祈りとは幽かなシグナルを聴き取ろうとする構えのことである。祈るためには五感の感度を最大化しなければならない。
⑲成熟
幼児のときには見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえ、判別できなかった香りや味がわかり、かつては感知できなかった他者の感情の変化や思考の揺れがわかる。それが成熟するということの実相である。
成熟とは、徹底的に身体的な経験なのである。
⑳身体
正義が過剰に攻撃的なものにならないように、慈愛が過剰に放埓なものにならないように、バランスを取ることができるのは生身の人間だけである。
そういうデリケートなさじ加減の調整は、身体を持った個人にしかできない。法律や規則によって永続的に「正義と慈愛のバランスを取る」ことはできない。
目から鱗何枚落ちたか。
非常に勉強になりました。
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