愛読しているブロガーさんが読書感想文を書いていて久々に読みたくなったこちら。
高校の教科書にも掲載されているから多くの方が一度は目を通したことがあるであろう、夏目漱石の「こころ」。
高2のとき教科書で読んで、そのあと夏休みに文庫本で読み直して(当時一年に読書感想文用の本を含めて2,3冊しか本を読まなかったので鮮明に覚えてる)、大学時代に一度読み直して、で、今回3回目。
同じ本なのに、読むのは同じ自分なのに、響く箇所や届くメッセージは、読む時によってこうも大きく変化するものなのか、と、小説と自らの多様性に驚いています。
今回自分にグサっと刺さった箇所をバーチャル付箋、マーカーがわりに感想と考察と共に書き残しておきます。
ちなみに( )内は発言者。
全文は
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/773_14560.html
ここから読めます♡
⚫︎自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出す程に奥さんは現代的ではなかった。奥さんはそれよりもっと底のほうに沈んだ心を大事にしているらしく見えた。(わたし)
→現代人、やりがち。人間のする話のほとんどは承認欲求からきている。このブログ然り。
「現代的」という表現から、明治時代より前の日本人は理や知よりも、心を大事にしていたとみえる。
⚫︎「然し悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。
そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。
平生はみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。」(先生)
⚫︎「小供に学問をさせるのも、良し悪しだね。折角修行をさせると、その小供は決して宅へ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ。」(わたしの父)
→就学や就労にともなう親子、家族の分離に違和感を覚える。と、インドにヨガを学びにいきたいわたしが言う矛盾。
⚫︎「私はこういう矛盾な人間なのです。或は私の脳髄よりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛盾な人間に私を変化させるのかも知れません。私はこの点に於ても充分私の我を認めています。」(先生)
→過去は目には見えない、いまここにないものだけど、たしかにいまここに生きる人間の現実を圧迫する。過去への執着は、自我への執着。生命エネルギーの浪費。自由の制限をもたらすだけ。
⚫︎「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴せかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出来るなら満足です。」(先生)
→ここ読んだ時、ブルっときた。ノ)゚Д゚(ヽ
「先生」は、誰にも口外したことのない自分の秘密を「わたし」に正直に吐露することで、永遠の命をいただいた模様。
「わたし」が「先生」からたった一人で引き継いだもの、請け負ったもの重さ、大きさを考えるぞっとした。
⚫︎「香をかぎ得るのは、香を焚き出した瞬間に限る如く、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹那にある如く、恋の衝動にもこういう際どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。」(先生)
→ここ読んだ時、(まぁここに限らず)漱石さんは天才だと思った。喩えが的確で豊富な人に憧れる。物事の本質を理解した上でそれを万人に分かるように説明できるという点で。
この箇所は喩えがわかりやすいだけでなく、詩的で美しい。何度も吟味したくなるお気に入りの一節♡
⚫︎私はそれまで未亡人の風采や態度から推して、この御嬢さんの凡てを想像していたのです。(中略)ところがその推測が、御嬢さんの顔を見た瞬間に、悉く打ち消されました。そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂が新らしく入って来ました。私はそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。(先生)
⚫︎本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。(中略)もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性慾が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。(先生)
⚫︎「然し悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。
そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。
平生はみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。」(先生)
→みんな本質的には悪でも善でもない普通(中庸・ニュートラル)の人。いざという間際=利己心が働く時や守りに入る時に、その対象に対してのみ、悪に傾き得る。
⚫︎「小供に学問をさせるのも、良し悪しだね。折角修行をさせると、その小供は決して宅へ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ。」(わたしの父)
→就学や就労にともなう親子、家族の分離に違和感を覚える。と、インドにヨガを学びにいきたいわたしが言う矛盾。
⚫︎「私はこういう矛盾な人間なのです。或は私の脳髄よりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛盾な人間に私を変化させるのかも知れません。私はこの点に於ても充分私の我を認めています。」(先生)
→過去は目には見えない、いまここにないものだけど、たしかにいまここに生きる人間の現実を圧迫する。過去への執着は、自我への執着。生命エネルギーの浪費。自由の制限をもたらすだけ。
⚫︎「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴せかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出来るなら満足です。」(先生)
→ここ読んだ時、ブルっときた。ノ)゚Д゚(ヽ
「先生」は、誰にも口外したことのない自分の秘密を「わたし」に正直に吐露することで、永遠の命をいただいた模様。
「わたし」が「先生」からたった一人で引き継いだもの、請け負ったもの重さ、大きさを考えるぞっとした。
安易に他人の秘密や過去を覗いたり暴いたりするべきではないという教訓に思われる。
⚫︎「香をかぎ得るのは、香を焚き出した瞬間に限る如く、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹那にある如く、恋の衝動にもこういう際どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。」(先生)
→ここ読んだ時、(まぁここに限らず)漱石さんは天才だと思った。喩えが的確で豊富な人に憧れる。物事の本質を理解した上でそれを万人に分かるように説明できるという点で。
この箇所は喩えがわかりやすいだけでなく、詩的で美しい。何度も吟味したくなるお気に入りの一節♡
⚫︎私はそれまで未亡人の風采や態度から推して、この御嬢さんの凡てを想像していたのです。(中略)ところがその推測が、御嬢さんの顔を見た瞬間に、悉く打ち消されました。そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂が新らしく入って来ました。私はそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。(先生)
→これも、人や物はすべてニュートラルで、それを見る人の独断と偏見(色眼鏡)で、美しくも醜くも変わる、ということの表現。思考、想像の範疇に収まる程度の想いは、恋とは呼べないんだろうな。反省。
⚫︎本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。(中略)もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性慾が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。(先生)
→宗教が愛や禁欲を語りたがるゆえん。先生、人をこんな境地で愛せるひとなのに。泣けてくる。
●(Kは)意思の力を養って強い人になるのが自分の考だと云うのです。それになるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、まるで酔興です。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。彼は寧ろ神経衰弱に罹っている位なのです。(先生)
→ヨガを本腰入れて勉強しはじめたころのわたしは傍から見たらこんな感じだったんだろうな。食べるものや生活習慣や行く場所や会う人を限定する・・・・なんて窮屈な人間だったんだろう。ブッダも苦行は必要ないと言ってくれてるのに。
●つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時に尤も迂遠な愛の実際家だったのです。(先生)
→「御嬢さん」への想いを募らせた「先生」が、恋の三角関係について頭でいろいろ考えすぎて一歩も行動に移せず至った結論。
迂遠な愛の実際家を脱出しようと思います。
●(「K」を自殺に追い込んだ決定打、「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」という発言について)要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。(先生)
→「先生」は「K」を責めたかったわけじゃない。自分の利益を守りたかっただけ。というのがつらい。人は人を責める時、九割九分で自分を守っている。
●もしKと私がたった二人嚝野の真中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。然し奥には人がいます。私の自然はすぐ其所で食い留められてしまったのです。(先生)
→謝りたいのに意地があって、周りを気にして、謝れないとき。よくある。
文中に「自然」ってよく出てくるけど、自我や自尊心が働いていない状態のことを指してるんだな。
●『おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ』(先生)
→宗教家チックな「K」を「人間らしく」させようと偉そうにしていた「先生」が、「K」に「人間として」負けたことを認めた瞬間の屈辱は計り知れない。
以上。
ヨガも読書も
どちらも抱え込みがち、隠しがちな「自我」を外に出してくれる道具。
●(Kは)意思の力を養って強い人になるのが自分の考だと云うのです。それになるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、まるで酔興です。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。彼は寧ろ神経衰弱に罹っている位なのです。(先生)
→ヨガを本腰入れて勉強しはじめたころのわたしは傍から見たらこんな感じだったんだろうな。食べるものや生活習慣や行く場所や会う人を限定する・・・・なんて窮屈な人間だったんだろう。ブッダも苦行は必要ないと言ってくれてるのに。
●つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時に尤も迂遠な愛の実際家だったのです。(先生)
→「御嬢さん」への想いを募らせた「先生」が、恋の三角関係について頭でいろいろ考えすぎて一歩も行動に移せず至った結論。
迂遠な愛の実際家を脱出しようと思います。
●(「K」を自殺に追い込んだ決定打、「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」という発言について)要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。(先生)
→「先生」は「K」を責めたかったわけじゃない。自分の利益を守りたかっただけ。というのがつらい。人は人を責める時、九割九分で自分を守っている。
●もしKと私がたった二人嚝野の真中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。然し奥には人がいます。私の自然はすぐ其所で食い留められてしまったのです。(先生)
→謝りたいのに意地があって、周りを気にして、謝れないとき。よくある。
文中に「自然」ってよく出てくるけど、自我や自尊心が働いていない状態のことを指してるんだな。
●『おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ』(先生)
→宗教家チックな「K」を「人間らしく」させようと偉そうにしていた「先生」が、「K」に「人間として」負けたことを認めた瞬間の屈辱は計り知れない。
以上。
ヨガも読書も
どちらも抱え込みがち、隠しがちな「自我」を外に出してくれる道具。
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