2014年3月7日金曜日

人間の建設


人間の建設


去年からハマっている数学者・岡潔(おかきよし)氏と、作家・批評家の小林秀雄氏の対談本。

わたしは岡潔先生の、"知情意"の中でも、"情(緒)"が人間の中心であるとする情緒本質論がとても好きで、強く共感しています。数学の授業は大嫌いだったし高校の全国模試でも順位は後ろから数えた方が早かったけど、岡先生の数式は解いてみたいと思う。


以下は、岡先生自身が子育て中に、赤ん坊の成長を観察することで閃いた人間と世界の「はじまり」についての考察の抜粋。

"自他の別なく、時間というものがないから、これが本当ののどかというものだ。それを仏教で言いますと、涅槃(ねはん)というものになるのですね。
世界の始まりというのは、赤ん坊が母親に抱かれている、親子の情はわかるが、自他の別は感じていない。時間という観念はまだその人の心にできていない。---そういう状態ではないかと思う。" 


お母さんに抱かれてニコニコ安心している最近生まれた友達の赤ちゃんたちを見ていて、赤ちゃんにはしっかり情緒があって、さらに彼らには「今」という時間しかないんだなぁと思った。

社会的には大人になってしまったわたしたちも、赤ちゃんに戻れる瞬間があるように思う。それが、なにかを「創造」しているとき。



情熱に導かれるままに、我と時間を忘れてなにかに集中、没頭しているとき、そこに自他の別(わたしとあなた、という風に自分と世界を切り離して捉える二元論的認識)も、時間という観念(過去・現在・未来の認識)も存在しない。

このとき、わたしたちの内側に備わっている創造性は最大限に発揮される。この宇宙を創造、維持、破壊しつづけている大いなる力(インドではブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァの三神)とダイレクトにつながっている。気がする。


また、自他の別や時間の観念がなければ、そこには闘争も煩悩も恐れも存在しない。

あらゆる闘争、煩悩、恐れは、わたし(という意識)とわたし以外の世界(肉体含む)が別個のもので、一なるもの、永遠なるものではないという幻想から発生し市民権を得ている。

ちなみにこの幻想はサンスクリットではマーヤーと呼ばれ、インドの古典文学でも度々題材になっており、ヨガはマーヤーを取り除き、通常マーヤーに隠されている自分自身と世界の本質に気づくきっかけを与えてくれるものとして五千年以上継承されている。

ヨガや仏教はじめあらゆる宗教が目指すサマーディや涅槃(悟り)の境地は、「情緒や情熱」を伴った「創造」によって、宇宙と一体となることで、その境地にいることすら気づかぬまま、ただ自他の別も時間の観念もない場所に意識がつながることではないかと、この「人間の建設」を拝読してふと思ったのでした。



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